高山の花

今日が最後の診察です

自分の健康に何か非があるのかと
ぎょっとしたのも束の間
老先生はあの穏やかな笑みを湛えて
こう付け足した

今月末で引退するんです

あなたのような患者さん方や
赤ちゃんとの多くの出会いがあって
産婦人科医として50年間勤めたことを幸せに思います

何と謙虚で、揺るぎのない誇りだろう
私など遠く及ばないこの職業人の
美しい最後の言葉を私のために
惜しみなく語ってくれたこと
私こそ何という幸せをもらっただろう

あの先生には、二人の息子を
この世に迎える手伝いをしてもらったばかりか
その後の大小さまざまなことを支えて頂いたのだった

50年もの間に培った先生の経験や知識は
後に従う人たちに引き継がれもするだろうが
子どもを授かりたい夫婦や
更年期障害に悩む女性との対話
先生の手が受けた新生児の重み など
先生自身の五感が与えかつ得たものは
先生の中でしか生き続けられなくもあろう

まるで誰に見られることもなく生を遂げる
高山で咲く可憐な花のようだ

他の誰のためでもない
唯一無二の
自分だけのものである

自然も
そこで生きとし生ける人間の生も
何と贅沢で
何と厳しく
そして
何と崇高なものであろう

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白乃ちえこ
白乃ちえこ
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